深紅に染まりしはの籠











第四十四話



この屋敷に引き取られて三日目。
好きな事をして良いと言われたのでお言葉に甘えてこの世界の文字を勉強したいと言った。
ヒュアとルルの様な体験をするのであれば数ヶ月はこちらの世界に居るだろう。
なら文字を覚えていて損は無い。

グリューラはこちらの世界の文字の教材を集めてくれた。
この世界の文字を勉強したいと言った菊代の為に用意してくれた教材がテーブルの上に広がっている。
勿論鉛筆やシャーペンが無いので、何かの羽に緑がかった黒いインクらしきものを付けて書く。
これが案外難しくて、付け過ぎると文字が滲み、少ししか付けないとすぐにインクが無くなる。

だが、こちらの世界の文字に菊代の世界の文字がどれに当てはまるのか分からなくて、最初はグリューラに教えてもらっていたが、物覚えの良い菊代は僅か一時間ほどで大体の文字を覚えてしまった。
グリューラはそのあまりの速さに目を丸くしながら、文字の練習を始めた菊代の邪魔をしない様にとそっと退室した。



少し落ち着くと今まで気づかなかったことに気づいた。

今更だが、こちらの世界の言葉は聞いたことがない。
だが、言葉を聞いているとすらすらと意味が浮かび上がりまるで良く知っている言語を聞いているみたいだった。
偶に意味の分からない言葉もでてくる。
それは大体固有名詞が多い。
話すのは少し詰まるときがあったが、不思議なことにもう慣れて母国語の日本語の様にすらすらと喋れる。

これはきっとあの外套を纏った男に言移しをされたのだろう。
ヒュアから聞いていた話とも良く合うし、終わった後体に負担が掛かった。


後、理由はわからないがこちらの世界だと体が異様に軽い。
ふわふわとした感じでは無く、体重が減ったような・・・体に掛かる重力が減った・・・そんな感覚。
で、気分が良い。
体に関する気分ではなく・・・・心の底辺の気分という感じだ。

特に体に異常が見られないので大丈夫だとは思うが。


それと、どうやらこちらの世界の季節は6月位の気候でとても暖かい。
日本と違って湿気は多くなくからっとした空気が心地よい。


ふぅ、と息を吐いてペンをテーブルに置く。

この部屋には時計が無いので今が何時か分からないが、太陽の傾き加減から察するに3時ごろ・・・だと思う。
月の色は青っぽかったけど太陽は真っ白い光で地球と同じ。
地球と同じような環境であの青み掛かった月はこの星の衛星だろう。

座ったまま窓の外を眺める。
燦々と降り注ぐ太陽の光は窓のすぐそこに植えられている木々を青々と輝かせていた。
どうやらこの部屋の窓の向こうは庭園が広がっているらしく、木々の合間から噴水らしきものが見えた。
自然一杯で木々の色も形も普通の物だ。
細かく言うなれば、菊代がいつも目にする物より大きいくらい。
生態系はどんな風になっているのだろう?





凝った肩を解すように揉む。

「・・・これからどうなるんだろう」
ヒュア達の件と同じ例として考えるならこんなこと考えても無駄だろう。
でも、知り合いがまったく居ないこの世界で生きていくには・・・不安すぎる。
せめて・・・せめてヒュアとルルが居てくれれば・・・・。


王子であるのだから、きっと有名だろう。
なのに名前が知られていない。

菊代の中にはこの世界に2人は居ると信じている。
否、信じたい。


「会いたい・・・会いたいよ」
長いソファにぽすんと倒れると瞳を瞑り愛おしい二人の顔を思い出す。
あんなに大好きだった二人。
でも、時が経つに連れて愛らしい顔、表情、声が朧気になっていく。


「いや・・・いやだ・・・」
そうは思ってもどうすることもできない。
少しでも記憶が消えていくのを防ぐために二人の顔を思い浮かべる。


突然。
本当に突然思い出した。


うざい。
・・・・ごめん、ちょっと・・・。
なんかさぁ、くさくなーい?
クスクス



「っ!!!」
目を見開き頭を掻き毟る。
小学生の頃や中学生の頃。
高校に入って初めの頃。


嫌な記憶が蘇り、その一つ一つが菊代の心を傷つける。


「ちがう、違う、違うっ・・・・・いや、いや・・・ちがう・・・」

まだ辛い記憶を受け止めるには・・・無理。
心の奥底においやって、忘れる。
無かったことに・・・したようにする。


「いや・・・」

は、は、と短い呼吸を繰り返し、嫌な記憶を封印する。
逃げていては駄目だ。
それにあったことは変わりない。



そのうち、疲れ、眠気に襲われてそのまま眠りについた。




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